新たな夢はパラリンピック 義足のプロレスラー・谷津嘉章「若い人にだって負けないよ」【連載vol.61】

義足をもろともせず、走るだけでなく、リングに上がりチャンピオンベルトを手にしている。「凄いヤツ」谷津嘉章は本当にスゴイ。

群馬・明和町の冨塚基輔町長に聖火トーチを寄贈する谷津嘉章【写真:谷津嘉章提供】
群馬・明和町の冨塚基輔町長に聖火トーチを寄贈する谷津嘉章【写真:谷津嘉章提供】

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 義足をもろともせず、走るだけでなく、リングに上がりチャンピオンベルトを手にしている。「凄いヤツ」谷津嘉章は本当にスゴイ。

 2019年6月、谷津は糖尿病の悪化により右足のひざ下7センチから下を切断した。ほどなくして見舞ったときには、今の勇姿は想像もつかなかった。持ち前のポジティブな性格で、明るく振る舞ってはいたが、胸がしめつけられた。こちらまで悲しくなったことを鮮明に思い出す。

 ところが「義足レスラー」として再デビューを果たし、DDTのKO-D8人タッグ王座に君臨。あっぱれだが、その裏の努力には頭が下がる。

「谷津リボーン」伝説の第一章は、2020東京五輪の聖火ランナーからだった。元より五輪の呪縛に苦しめられていた。レスリングの日本代表として1976年モントリオール五輪では8位入賞。金メダルが有力視された80年モスクワ五輪は日本がボイコット。「幻の金メダリスト」と呼ばれ、プロレスラー転身後も谷津の心から離れることはなかった。

 義足となったことで、プロレス復帰も諦めたが、義足でもスポーツを楽しんでいる人たちがたくさんいた。リハビリでも周囲が驚くほどの回復力と能力を発揮し、谷津本人も目標が見えてきた。2020東京五輪の聖火ランナーである。

 1年遅れたうえに、ヤキモキさせられたが、今年3月、栃木・足利市内を「義足のランナー」として走り抜いた。先日、聖火ランナー証明書が届き「これで自分のオリンピックはすべて終了した」と実感したという。

 1980年モスクワ五輪から41年。長かった日々。「たら、れば」と言ってもキリがないが、もし日本がボイコットしなかったら……。モスクワに出ていれば……。何度考えたことだろう。世の中、自分の力ではどうにもならないこともある。

 政治的理由で五輪をボイコットというのが何とも釈然とせず、やり場のない怒り、払拭できないモヤモヤをずっと引きずってきたが、聖火を持って走り、証明書を手にしたことで「これでやっと区切りがついた」と、すがすがしい気分になったという。

 モスクワの悔しさを糧にして、そして東京の聖火ランナーをリハビリの当面のゴールとしてきたからこそ「困難も乗り越えられたと思う」と振り返る。谷津の人生は五輪と共にあったのだ。振り回されたが励まされもした。

 聖火のトーチは、出身地の群馬県明和町に寄付した。実は亡くなったお父さんが、モントリオール五輪に出場したときに谷津が着用したブレザーを寄附していた。それらは、郷土の誇りとして、大切に保管されるはず。

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